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東京地方裁判所 平成7年(ワ)13556号 判決

原告

高木恒嘉

右訴訟代理人弁護士

木村雅暢

八木良和

被告

ヴァリグ株式会社

日本における代表者

ジョン・ルイス・ベルネス・デ・ソウザ

右訴訟代理人弁護士

染井法雄

前田哲男

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、四二七九万七九〇七円を支払え。

第二事案の概要

本件は、ブラジル合衆共和国(以下「ブラジル」という)に本店を有する被告に雇用され、その日本支社で勤務していた原告が、労働契約の解約の合意の成立を争い、仮に、右合意があったとしても、被告がした、日本支社の従業員の定年年齢を六五歳から六〇歳に切り下げる旨の就業規則の変更が不利益変更に当たり無効であるのに、これを有効と誤信した錯誤があるなどと主張して、被告に対し、六五歳までの賃金の支払を求めた事案である。

一  争いのない事実等

以下の事実は、当事者間に争いがないか又は括弧内記載の証拠等によって認められるものである。

1  被告は、ブラジル法に準拠して設立され、ブラジルに本店を有する航空会社であり、日本における代表者を定め、平成六年三月末当時、日本国内において、標記営業所のほか、大阪、名古屋及び福岡に営業所を有していた。

2  平成六年三月末当時、被告は、日本を含む海外約三〇か国に海外支社を有していたが、日本支社(前記四営業所で構成されるもの。以下同じ)の組織は、日本及び韓国地区を統括する支社長(日本における代表者を指す。以下同じ)の下に営業本部及び成田空港支店があり、営業本部の下に予約部ほか五か部一課三営業所(大阪、名古屋及び福岡)があるというもので、右当時の日本支社の従業員数は七五名(支社長を除く)で、その内訳は、次長以上の幹部社員(後記労働組合の組合員資格を有しないもの)二二名、一般社員四九名、パートタイマー四名であった(証拠略)。

3  原告(昭和八年七月一八日生)は、昭和四〇年一二月一五日被告との間で労働契約(以下「本件労働契約」という)を締結した日本支社の従業員で、平成六年三月末当時予約部長の地位にあった。日本支社には、従業員の労働組合として、ヴァリグ・ブラジル航空日本支社労働組合(以下「組合」という)が組織されていたが、原告は幹部社員であったため、組合に所属していなかった。

4  平成六年九月当時、原告の賃金は、(1) 毎月二五日に支給される当月分の給与が、基本給七〇万五八九五円、住宅手当二万二〇〇〇円及び家族手当一万円の合計七三万七八九五円、(2) 毎年六月及び一二月に支給される賞与が、基本給、住宅手当及び家族手当の合計額の各三・五か月分に相当する二五八万二六三二円であった。

二  争点

1  合意解約の正否

(一) 被告の主張

次に述べるとおり、原、被告間においては、平成六年九月末日をもって本件労働契約を解約する旨の合意が成立した。

(1) 被告は原告に対し、同年七月二七日、同年九月末日付けで本件労働契約を解約する旨の申込みをした。

(2) 原告は、同日、被告の右申込みに対し、明示の承諾をした。仮に、原告が明示の承諾をしたことが認められないとしても、次に述べる経緯に照らせば、原告は、遅くとも同年九月末日までに黙示の承諾をしたものである。

すなわち、〈1〉 被告は、大幅な累積赤字を抱え、同年三月一四日債務の支払を停止するに至った。被告社長フーベル・トーマス(以下「トーマス社長」という)は、支払停止に先立つ同月九日、全従業員に対し、支払停止についての説明文書を発した。〈2〉 同年五月五日、トーマス社長は、全従業員二万五〇〇〇名のうち二六〇〇名を直ちに削減すること、うち五〇〇名は海外支社(同年二月現在の従業員数二〇〇八名)において削減することを発表した。〈3〉 同月九日、当時の日本支社長ジョン・ロス(以下「ロス支社長」という)は、同支社の従業員に対し、日本支社も右人員削減の例外ではないことを伝えた。〈4〉 日本支社では、同年四月から開始された春闘において、同支社の従業員の定年年齢を六五歳から六〇歳に切り下げるべく団体交渉が行われ、同年五月一八日、労働組合はこれに書面で同意した。〈5〉 同年六月一日、日本支社の全体会議が開催されたが、原告も含め、定年年齢の切下げについて異議を述べる者はなかった。会議の席上、ロス支社長は、「今後も意見のある方は私の部屋に来て欲しい。いつでも聞く用意がある」と述べた。〈6〉 原告は、〈1〉ないし〈5〉の各事実を承知していたが、定年年齢の切下げについて何ら反対意見を述べることをしなかった。〈7〉 同年七月二七日、日本支社では、同支社の従業員の定年年齢を六五歳から六〇歳に切り下げる旨の就業規則の変更をした(以下「本件就業規則変更」という)。当時既に六〇歳に達していた原告は、日本支社長補佐小竹信行(以下「小竹支社長補佐」という)から、同年九月末日をもって退職していただきたい旨及び年次有給休暇の消化と業務の引継ぎを行っていただきたい旨要請されたが、これに異議を述べることもなく、かえって、「あなたもご苦労さんだね」と同支社長補佐にねぎらいの言葉さえかけた。〈8〉 本件就業規則変更の当時、日本支社において既に六〇歳に達していた従業員は原告のほかに三名おり、これらの者についても原告同様、同年九月末日又は一〇月末日をもって退職していただきたい旨を要請したが、異議を述べる者はなかった。〈9〉 原告は、その後も被告を退職することについて何ら異議を述べないばかりか、年次有給休暇を消化し、業務の引継ぎを行った上、同年九月末日退職金受領関係の書類に署名をし、その後被告から振り込まれた退職金を現実に受領した。そして、平成七年六月二二日付けの内容証明郵便によって、突然、被告に対して就労を請求するまで、何ら異議を述べることもしなかった。

(二) 原告の主張

争う。被告の主張(2)の〈1〉ないし〈9〉の各事実に対する認否は、次のとおりである。

〈1〉の事実については、被告が財務諸表上の累積赤字を計上していたこと及び全従業員に支払停止についての説明文を発したことは認める。平成六年三月一四日のいわゆる支払停止は、当時の航空機市場価格に比し割高な契約価格に設定されていた航空機リース料金の価格改定交渉のための交渉手段として航空機リース料金の一部の支払を停止したものであり、一般的な意味での債務の支払停止ではない。〈2〉の事実は認める。〈3〉、〈4〉の事実は否認する。〈5〉の事実のうち、被告主張の日に会議が開催されたことは認め、その余は否認する。〈6〉の事実のうち、原告が定年年齢の切下げについて反対意見を述べなかったことは認め、その余は否認する。〈7〉の事実のうち、被告主張の日に本件就業規則変更をしたこと及び原告が小竹支社長補佐から被告主張の要請を受けたことは認め、その余は否認する。〈8〉の事実は不知。〈9〉の事実は認める。

2  錯誤無効の成否

(一) 原告の主張

本件労働契約について合意解約が成立するとしても、原告の承諾の意思表示には、本件就業規則変更が無効であるのにこれを有効であると誤信した錯誤があるから、右合意解約は民法九五条本文により無効である。

すなわち、(1) 六五歳定年制は、被告日本支社の創立以来三〇年近くも実施されてきた制度であり、日本支社の従業員全員の周知の制度であったから、日本支社の従業員にとって既得の権利であり、労働契約の内容となっている。したがって、定年年齢を六五歳から六〇歳に切り下げるという労働条件の不利益変更を就業規則の変更という方法により一方的に行うことは許されず、そのような就業規則の不利益変更は当然に無効である。(2) 平成六年の高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の改正により六〇歳定年が義務づけられ、六五歳定年が努力義務化されたが、本件就業規則変更は、右改正の趣旨に反するものである上、日本支社の従業員から五年間にわたる労働の機会とこれに伴う収入(原告の場合、平成六年九月当時の年収が約一四〇〇万円であるから、定年まで合計約五〇〇〇万円と計算される)を奪い、著しい不利益を課すものであるにもかかわらず、代償となる労働条件の改善は全く考慮されていない。殊に、新定年制が即時適用される原告を含む対象者に対する配慮は皆無である。しかも、原告を含む非組合員の意見の聴取など一切の関与手続が採られていない。それどころか、本件就業規則変更は、労働組合の執行部との間で二年を経過した後は旧定年制に復する旨の密約を結ぶ一方で、実質的には非組合員である原告などの管理職の一部のみを対象として実施したものであって、正義に反し著しく不公正なものである。右の諸点に照らせば、本件就業規則変更は合理性を欠き、無効である。

右のとおり本件就業規則変更は無効であるのに、原告はこれを有効であると誤信したのであるから、原告の承諾の意思表示には動機の錯誤があることになる。そして、被告は、右申込みに際し、本件就業規則変更を理由として、被告を退職してもらいたい旨表示したのであるから、これに対する承諾の意思表示の内容として、本件就業規則変更が有効であるという動機が明示的に表示されていることは明らかであり、そうでないとしても、当時の経緯からして、少なくとも黙示的には表示されている。仮に、右の動機が意思表示の内容として表示されているとは認められないとしても、通常人であれば、本件就業規則変更が無効であることを知っていれば、合意解約に応じないことは明らかであるから、この点に関する錯誤は重要な事項に関する錯誤といえ、要素の錯誤に当たる。

(二) 被告の主張

争う。本件就業規則変更は有効であるが、その法的効力のいかんにかかわらず、原告の承諾の意思表示に錯誤はなく、本件合意解約は有効である。

すなわち、本件就業規則変更は、平成六年二月現在の従業員数が二〇〇八名であった被告の海外全支社(日本支社を含む)において五〇〇名を直ちに削減しなければならないという危機的な経営状況の下で、日本支社において、我が国の一般的な労働慣行を大きく上回っている六五歳定年を標準的な六〇歳に改め、当時既に六〇歳を超えていた従業員四名に退職してもらうこととしたものである。しかし、これだけでは必要な人員削減を達成することができないことは当初から明白であったため、本件就業規則変更と併せて、希望退職の募集、五三歳以上の幹部社員に対する一律の退職勧奨及び解雇、大阪、福岡両営業所の閉鎖、組合員に対する退職勧奨及び解雇、五二歳以下の幹部社員に対する退職勧奨等、会社の存亡をかけて大幅な人員削減を進めざるを得なかった。原告は、右の経緯、特に、原告よりも年齢が低く、未だ日本の標準的な定年年齢に達していない五三歳以上の幹部社員が一律に退職勧奨を受け、その大半がこれを受け入れて退職していったことを知りつつ、彼らよりも年齢が高く既に標準的な定年年齢を超えていた幹部社員として、自らの退職もまた当然のこととして受け入れ、何ら異議を述べることもなく退職手続を了したのである。以上によれば、本件就業規則変更の法的効力いかんは、原告の承諾の意思表示の内容とはなっておらず、したがってまた、その法的効力がないと知っていれば原告が合意解約に応じないことが明らかであるともいえない以上、本件就業規則変更の法的効力の有無について仮に錯誤があったとしても、要素の錯誤には当たらない。

3  重過失の有無

(一) 被告の主張

本件就業規則変更について原告に何らかの意見があったのであれば、平成六年七月二七日までの間、あるいは同年九月末日までの間にそれを述べる機会と時間は十分にあったにもかかわらず、原告は、被告を退職することを異議なく受け入れ、その後は出社もせず、平成七年六月二二日付けの内容証明郵便による突然の就労請求に至るまで、何ら異議を述べることもなかった。このような事実に照らせば、仮に、原告の承諾の意思表示に何らかの錯誤があったとしても、原告には重過失があったものである。

(二) 原告の主張

争う。そもそも、就業規則の不利益変更が有効であるか無効であるかは、極めて専門的な判断を要するものであり、法律家でない素人が簡単に判断できるようなものではない。まして、本件は弁護士同士でも見解が異なるような事案であるから、原告が、本件就業規則変更が無効であることを知らずに、本件就業規則変更により被告を退職せざるを得ないと誤信したことについて、原告には過失すらなく、いわんや重過失は存在しない。

4  未払賃金の額

(一) 原告の主張

(1) 原告は、平成七年六月二二日、被告に対し、同日付けの内容証明郵便により、同年七月一日から原告を就労させるよう請求したが、被告はこれを拒否した。

(2) よって、原告は被告に対し、同日から定年退職の日(満六五歳の誕生日の属する月の末日)である平成一〇年七月末日までの間の賃金として合計四二七九万七九〇七円(給与分二七三〇万二一一五円及び賞与分一五四九万五七九二円)の支払を求める。

(二) 被告の主張

原告の主張(1)の事実は認め、(2)は争う。

第三争点に対する判断

一  前記争いのない事実等、証拠(略)によれば、次の事実が認められる。

1  被告は、業績不振等により平成三年末時点で既に巨額の累積損失を抱えていたが、経営状態はその後更に悪化し、平成五年末時点では、資本金二億六一四九万八〇〇〇米ドルに対し、累積損失額が三億米ドルを超え、深刻な経営危機に陥った。

2  被告は、経営危機の深刻化に伴い、路線の縮小、海外支社の一部閉鎖・販売代理店への移行などによる合理化を進める一方、従業員の削減にも着手し、平成三年当時ブラジル本社・海外支社合わせて二万八八〇〇名余りいた従業員を、平成六年二月末時点で二万五〇〇〇人程度にまで削減した。

これに対し、日本支社では、それまで人員削減は行われていなかったが、人事面での合理化の必要性は以前から認識されていた。すなわち、日本支社では、その創立以来、就業規則において従業員の定年年齢を六五歳と定め、定年まで無限定に定期昇給を行い、被告の業績のいかんに関係なく毎年二回基本給、住宅手当及び家族手当の合計額の各三・五か月分に相当する賞与を支給することとしていたが、日本国内に支社を有する海外の同業他社と比べて日本支社の従業員の定年年齢は高く、しかも日本支社創立後三〇年近くを経て従業員の高齢化が進んでいたため、高齢者の人件費が日本支社の経費を圧迫する大きな要因となっていた。そのため、平成五年二月ころ、これを問題視した当時の日本支社長は、早期退職制度の導入を検討し、その旨本社に報告していた。

3  前記1のとおり、平成五年末時点で危機的な経営状態に陥った被告は、平成六年三月一四日、借入金及びリース料元利金の支払の停止を取引銀行及びリース会社に申し入れ、右取り引き銀行等との間で、大幅な人員削減の実施を前提に被告の再建への協力を求めて交渉を始める一方、これに先立つ同月九日、トーマス社長が全従業員に対して文書で、業績不振から脱するためには人事面及び運航面での合理化に加えて財務面での合理化が不可欠であり、今回の交渉はそのためのものであって、契約に基づく義務や責任を放棄しようとするものではないことを説明し、さらに同年四月六日には、交渉の経過及び今回の交渉がブラジル政府との調整の下でその支持を得て行われていることを伝えるなどして、従業員の動揺や不安感を取り除くことに努めた。

4  そのころ、日本支社では平成六年度の春闘交渉が行われていたが、ロス支社長は、六〇歳以上の従業員の退職によって人件費の削減を図ることとし、同年四月二五日、五三歳以降の定期昇給の停止措置(昭和五九年ころ、満五三歳をもって定期昇給を停止する運用をすることが労使で合意されていた)の例外的取扱いの実施を要求事項として掲げる組合に対し、従業員の定年年齢を六五歳から六〇歳に切り下げることを提案し、組合が定年年齢の切下げに同意すれば五三歳以降の定期昇給の実施も可能であるとの意向を伝えた。組合は、平成六年五月一八日、ロス支社長に対し、四条件を付して右提案を受け入れる旨回答したが、その四条件とは、(一) 定年の年齢とその条件について組合と協議すること、(二) かねてからの組合の要求事項である退職金保全措置(適格者年金制度)を(一)の条件にかかわる問題として取り扱うこと、(三) 五三歳以降の定期昇給の停止措置は定年にかかわるすべての問題が成案になった場合に発効すること、(四) これら組合の提案について労使双方の合意が形成されない場合、組合の受諾行為は平成八年三月三一日をもって自動的に消滅し、定年を六五歳に戻すこと、というものであった。

5  平成六年五月五日、トーマス社長は、全社で一〇日以内に二六〇〇名の従業員を削減すること、そのうち五〇〇名は海外支社で削減することなどを内容とする合理化計画を決定し、プレス・リリースを行い、右計画を公表した。日本支社では、同月九日、幹部社員を対象とするマネージャー会議の席上、ロス支社長が右合理化計画について説明をした。また、ロス支社長は、前記4の組合に対する定年年齢の切下げの提案及びこれに対する組合の回答についても、団体交渉の議事録の回覧等により幹部社員に周知させたが、定年年齢の切下げについて改めて幹部社員との話し合いの機会を持たなかったことに不満を持った一部の幹部社員から情報提供が不十分であるとの指摘がされたため、同年六月一日に日本支社の全体会議を開催し、トーマス社長の発表した合理化計画について報告し、今回の人員削減に当たっては日本支社でも相当な犠牲を払わざるを得ない旨の説明をした。この会議には、幹部社員、一般社員を問わず、従業員の多くが参加していたが、会議の席上、幹部社員の一部から、このような事態を招いた原因は日本支社の営業不振にあり、その責任は営業本部長にあるとの意見が出されるなどのことがあったものの、その他に日本支社における人員削減について表立って異論が出るということはなかった。会議の終了に当たって、ロス支社長は出席者に対し、意見があれば聞く用意があるのでいつでも支社長室に来られたい旨述べた。

6  同月一四日、ロス支社長は、ブラジル本社から、日本支社において同年一一月末日までに三五名程度の人員を削減し、一か月当たりの人件費をそれまでの約四一〇〇万円から一八〇〇万円程度にまで削減せよとの指示を受けた。ロス支社長は、右削減目標を達成するためには、早期退職者(同意退職者)を待つだけでは不十分であると判断し、ブラジル本社の承諾を得て、同年七月二七日、日本支社の従業員の定年年齢を六五歳から六〇歳に切り下げる旨の就業規則の変更を行い(本件就業規則変更)、労働基準監督署に届け出るとともに、六〇歳以上の幹部社員に退職してもらうことを決めた。

7  原告は同月一八日満六〇歳に達したが、小竹支社長補佐は、同月二七日、原洋子(広報宣伝部長。以下「原」という)、木村克(営業本部長。以下「木村」という)、中村勝利(経理部長。以下「中村」という)及び原告、以上四名の幹部社員に被告を任意で退職してもらうよう話し合うため、これら四名を個別に呼び出して面談し、本件就業規則変更を労働基準監督署に届け出たことを知らせるとともに、退職金規程どおりの退職金を支払うので被告の経営が危機的な状況にあることを理解して退職していただきたいとの申し出をした。右申し出は、ロス支社長の指示の下で、小竹支社長補佐が、長年被告に在籍した右四名の幹部社員らの気持ちを尊重し、右の者らが威厳を保ったまま自ら退職する途を選択することとなるよう意を用いて行ったものであった。

これに対し、原は、退職後は日本に住むか、ブラジルに住むか、それとも息子が在住している米国ボストン市に住むか、いずれがよいかという個人的な身の振り方について相談を持ちかけるといったことがあったが、小竹支社長補佐の申し出に応じ、同年一〇月末日付けで退職することに同意する旨述べた。また、木村及び中村も、小竹支社長補佐の申し出に応じ、木村は同年一〇月末日付けで、中村は同年九月末日付けで、それぞれ退職することに同意する旨述べた。

8  小竹支社長補佐は、原告に対しても、右三名に対する申し出と同様に、本件就業規則変更を労働基準監督署に届け出たことを知らせるとともに、退職金規程どおりの退職金を支払うので被告の経営が危機的な状況にあることを理解し、退職日を同年九月末日付けとして退職していただきたいとの申し出をした。その際、小竹支社長補佐は、今回は六〇歳以上の幹部社員である原、木村、中村及び原告の四名に退職を求めていること、退職日は、中村が原告と同じく同年九月末日、原と木村が同年一〇月末日となっていることを伝えたところ、原告が「原はまだ六〇歳になっていないのではないか」と尋ね、小竹支社長補佐が「九月には六〇歳になる」旨答え、また、原告が「なぜ二人ずつ退職日が違うのか」と尋ね、小竹支社長補佐が「原告と中村はセノリティがある(勤務年数が長い)」と答える、といったやりとりがあったが、原告は、その他、特段の異議を述べることはなく、小竹支社長補佐の申し出に対し、あっさりと「分かりました」と答え、「あなたもごくろうさんだね」とねぎらいの言葉をかけた。そして、小竹支社長補佐は、原告に対し、「それでは、有給休暇の消化をよろしくお願い申し上げます」と述べ、原告はこれを了承した。翌日、小竹支社長補佐から原告を含む前記四名の幹部社員に対し、英文により、要旨、本件就業規則変更が中央労働基準監督署長に受理されたことを知らせる旨、及び、同年九月末日(又は一〇月末日)で退職となるので、年次有給休暇を同日までに消化するよう求める旨の記載のあるロス支社長名義の同年七月二七日付けの文書が配布された。

9  被告が取引銀行・リース会社との間で行っていた前記3の交渉は、同年八月一五日合意に達し、取引銀行等から再建支援を受けるための条件として、同年三月一日時点と比較し、同年一〇月一日までに少なくとも二四七〇名の従業員を、平成七年一一月末日までに少なくとも四三七〇名の従業員、それぞれを削減することが被告に義務づけられた。

日本支社では、三五名程度の人員を削減するというブラジル本社から指示された前記目標を達成するため、平成六年八月一七日から早期退職の募集を始めることとし、募集締切日を同月末日として全従業員に対し文書をもって提案した。しかし、募集締切日までに希望退職に応じる意思を表明したのは一名(大阪営業所長、当時五九歳)のみであったため、ロス支社長は募集締切日を同年九月五日まで延長するとともに、同月一日から五三歳以上の幹部社員六名に対し個別に退職勧奨を行い、そのうち五名から退職の同意を得、次いで同月二九日から五二歳以下の幹部社員三名及び執務能力に問題があると判断した社員(組合員)六名に対し個別に退職勧奨を行い、そのうち幹部社員二名から退職の同意を得、退職勧奨に応じなかった合計八名の従業員については、同年一一月三〇日付けで解雇する旨通告した。さらに、同日付けで大阪、福岡両営業所を閉鎖することとし、両営業所の従業員八名全員の退職が合意された。

10  小竹支社長補佐が原告ら幹部社員四名と面談した平成六年七月二七日当時は、被告が取引銀行等との間で行っていた前記交渉が同年八月一五日合意に達する以前であって、その当時は、被告の経営の危機的状況から、被告がいつまで退職金規程どおりの退職金を支払える経営状態でいられるのか分からないという切迫した懸念が日本支社の従業員間に広まっていた。

11  原告は、小竹支社長補佐の前記申し出に応じて、業務の引継ぎを行い、同年八月初旬から出勤しなくなり、同年九月末日までの間に年次有給休暇を消化し、同年一〇月初めに退職金受領関係のすべての書類に署名をして退職金規程どおりの退職金約三三〇〇万円を受領した。その後、原告は、被告に接触を求めたり、定年年齢の切下げに異議を述べたりするなどの、退職を承服していないことを示すような態度をとることもなく、八か月余りが経過した平成七年六月二二日に至って、同日付けの内容証明郵便により、被告に対し同年七月一日からの就労を請求するという挙に出た。

以上の事実が認められ、(証拠略)の結果中、右認定に反する部分はその余の前掲証拠に照らして信用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

二  合意解約の成否について

1  以上によれば、小竹支社長補佐は、平成六年七月二七日、ロス支社長の指示を受けて、原告に対し、本件就業規則変更を労働基準監督署に届け出たことを知らせるとともに、退職金規程どおり退職金を支払うので被告の経営が危機的な状況にあることを理解し、退職日を同年九月末日付けとして任意で退職するよう求める旨の申し出をしたことが認められるが、右申し出の内容、右申し出をするに当たっての小竹支社長補佐の配慮、その他右申し出の前後の経緯等に照らすと、右申し出は、就業規則の適用の問題とは一線を画するものとしての、同年九月末日付けで本件労働契約を解約する旨の申込みの意思表示をしたものと解するのが相当である。

2  そして、前記認定事実によれば、原告は小竹支社長補佐から右申し出を受けた際、「分かりました」と答え、特段異議を述べることもなかったというのであるから、このよう原告の対応と、その後、小竹支社長補佐の申し出に応じて、業務の引継ぎを行い、同年八月初旬から出勤しなくなり、退職日までの間に年次有給休暇を消化し、同年一〇月初めに退職金規程に基づく退職金を受領し、その後平成七年六月二二日までの間、定年年齢の切下げに異議を述べたりするなどの、退職を承服していないことを示すような態度をとることはなかったこと、その他、前記認定の諸事情とを考え合わせると、原告は、日本支社の幹部社員として、被告が人員削減を含め全社的な経営合理化を進める中で、日本支社において高齢者の人件費負担を削減することが全社的な経費削減に大きく寄与する事情にあることを理解し、被告が六〇歳以上の従業員を削減対象とし、これに自らが該当する以上、退職はやむを得ないものと考える一方、被告の当時の危機的な経営状況からすれば、被告がいつまで退職金規程どおりの退職金を支払える経営状況でいられるのか分からないという当時日本支社の従業員間に広まっていた懸念が働いた結果、平成六年七月二七日、小竹支社長補佐に対して前記のような対応をすることによって、被告からの合意解約の申込みを受け入れ、これを承諾する旨の意思表示をしたものと認めることができる。

以上によれば、平成六年七月二七日、原、被告間において、同年九月末日付けで本件労働契約を解約する旨の合意(以下「本件合意解約」という)が成立したというべきである。

三  錯誤無効の成否について

原告は、右承諾の意思表示には、本件就業規則変更が無効であるのに有効であると誤信した錯誤があるから、本件合意解約は無効である旨主張する。

しかしながら、前記判示のとおり、原告が被告の申込みを承諾したのは、被告の経営合理化のためには大幅な人員削減が避けられず、日本支社において高齢者の人件費を削減することが全社的な経費削減に大きく寄与する事情にあることを理解し、被告が六〇歳以上の従業員を削減対象とし、自らがこれに該当する以上、退職はやむを得ないものと考える一方、被告の当時の危機的な経営状況からすれば、被告がいつまで退職金規程どおりの退職金を支払える経営状況でいられるのか分からないという懸念が働いたためであって、本件就業規則変更が法的に有効であるとの判断が本件承諾の意思表示の主たる動機を形成したものとは認められないし、右判断が黙示的に表示されたということもできない。

したがって、たとい、原告において本件就業規則変更の有効性を疑わなかったとしても、本件就業規則変更の有効性が原告の承諾の意思表示の内容として被告に表示されて本件合意解約の要素となったものということはできないから、本件就業規則変更の法的効力のいかんにかかわらず、右承諾の意思表示は「法律行為ノ要素ニ錯誤アリタルトキ」(民法九五条本文)には当たらない。

四  結論

以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 福岡右武 裁判官 矢尾和子 裁判官 西理香)

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